存在価値のない人間はいない

人は誰しも一度は、「自分は存在価値がないのではないか」と思ったことはあるのではないでしょうか。
単刀直入に言うと、この世には、無価値な人間というものは存在しません。

実は人間というのは、知らぬ間に誰かを助けていることがあります。
例えば、相手が落ち込んでいたところ、あなたの何気ない言葉で、相手は気持ちが晴れ、人生を好転させるきっかけとなるかもしれない。
あなたが話しかけていなかったら、その相手は路頭に迷うことになっていたかもしれない。
他愛のない会話で、「人を助けた」など思いもしないことですが、相手にとっては人生選択の材料になり得ます。

このように、自分の些細な言葉が、知らぬ間に誰かの役に立ち、感謝されるということはよくあります。
だから、この長い人生、必ず誰かの役に立っています。
それは自身が気が付いていないだけで、必ず誰かを救っています。

しかし逆に、誰かの言葉で助けられたことに、気が付かないことも多い。
「どんな事でも感謝をし、感謝を忘れない」は、成功者の多くが語っています。
成功者が「感謝」を強調する本当の意味が、理解できるのではないでしょうか。

私も悩み事を抱えたりすることはありますが、そんな時、ネットやブログ、小説、ゲーム等での誰かの言葉をきっかけに、救われたことは多々あります。
そのたびに、その作家や管理人に、心の中で感謝しています。
彼らは別段誰かを救いたく、その内容を書いたわけではないと思いますが、しかし私のような個人から、その人たちは知らない内に感謝されているわけなのです。

ところで私は、些細な事ですぐに根に持ち、恨みを抱く性格です。
以前より、恨みは相手のほんの些細な言動で生まれ、人知れず恨みを買っていることがあると、述べたことがあります。
今回の話とはベクトルが異なりますが、本質的には共通していると思います。

そんな恨みを抱かせる相手にも存在価値はあります。
私からすれば、そんな相手は「生きている価値などない」と思うわけですが、私以外の誰かは存在してくれてありがとうと、感謝しているものなのです。
たとえそれが、独裁者であろうと殺人鬼であろうと、誰か一人ぐらいは感謝している人はいるはずです。
100人中99人から存在価値なしと言われても、1人から価値があると言われれば、その人は十分存在価値があるというわけです。
しかし個人的に、99人から無価値と言われるような人生は歩みたくはないですね。

人は気付かない内に誰かを救っています。
自分という人間をきっかけに、相手の人生に、わずかながらも影響を与えています。
それは目に見えないため、自分も相手もそのことに気が付いていないことが多い。
気が付かないだけで、あなたは十分存在価値はあります。

今回の話で、自分の存在価値に自信を持ち、そして逆に、感謝すべき相手を考えさせるきっかけとなれば、私も十分役に立ったと自信を持つことができます。
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悪口を受け取らない方法

仏教の開祖・釈迦しゃかに、強い怒りを持つ異教徒の若者がいました。
その若者は、自分の仲間が次々と仏教に改宗していく様が許せず、釈迦本人の前に現れ、罵詈雑言ばりぞうごんの限りを尽くし非難しました。

しかし、釈迦は無反応でした。
それに対し若者は、「なぜ、言い返さない?」とたずねます。
「君は、祝日に、親族の者を歓待したことはあるか」
「当然、あるさ」
「親族が、君のもてなした食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、俺のモノになるだけだ」
「では、私の前で罵詈雑言述べたところ、私がそれを受け取らなければ、その罵詈雑言は、誰のモノになるのか」
「……受け取らなくても、与えた以上は与えたことになる」
「それは、与えたとは言わない」
「では、どういうのを受け取ったといい、どういうのを受け取らないというのか」
「悪口を、悪口で返し、怒りを、怒りで返す。それらは与えたモノを受け取っている。逆に、何も返さず無反応であることは、受け取っていないということになる」
「ではあなたは、いくら罵られても、腹を立てないのか」

智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波立たず。怒りに怒りをもっむくいるは、に愚か者の仕業なり

「……私は、愚か者でありました。どうか、お許し下さい」
その後、その異教徒の若者は、平伏し帰順しました。


釈迦のように、誹謗中傷ひぼうちゅうしょうを受け、平気でいられる人間はそうそういません。
無反応で何も言い返さなければ、こちらが「負けた」と思ってしまうものだからです。

そうならないよう、「言い返さなければならない場面・流れ」を、そもそも作らなければ良いのだと言っています。
初めから「無視」しておけば良く、一回でも反応するとそれは「その悪口を受け取った」ということになり、途中から無視を初めても、それは相手にとって「勝利」となるのです。

相手の言葉を、一々受け取る必要はありません。
しかしながら、私は一つ一つを受け取ってしまい、人知れず恨みを抱く人間なので、釈迦のような聖人にはなれないなと、思うこの頃であります。

批判は恨みの種



人は批判されると恨みを抱くもので、ましてや人格否定などされると、強い怨念となります。
基本的に人間は肯定されたい生き物で、自分の意見が批判されれば、いい気分はしません。

会話中、すぐに批判や否定から入る人っていますよね。
これって、とても損です。

私の知り合いにそんな人がいて、まず否定から始まり、結局同じ意見だとしても、意固地になる人。
否定から入るのはどうも口癖のようで、悪意はないようですが、それでもやはり気分を害します。

ゆえに、そういう人には情報を与えない、伝えないように心がけています。
色んな情報を持っていても、教えたくなくなりますよね。
こうして、批判や否定ばかりする人には、意見交換されなくなるばかりか、他人から耳寄りな情報を得ることができなくなるわけですね。

次に、人格否定について。
相手を必要以上に叱り飛ばし、人格までも否定することで、努力や根性を刺激し向上させようとする人。(大方、憂さ晴らしが理由でしょうけれど)
結果、その相手に引き起こされるパワーは、「根性」ではなく「怨念」です。
仕事など、必要以上に叱り飛ばしていた部下から、いつの日か恨みを晴らされるかもしれませんね。

人格否定でない場合でも、自分の好きなものを批判する人は、恨まれやすい。
例えば、私は中国史が好きだということもあり、わりと中国人が好きなんです。
そのため、中国や中国人のことがさげすまれると、妙に心が締め付けられるような、嫌な気持ちになるんです。
このように自分の事を悪く言われているわけではないのですが、やはり自分が好きなものを否定されるというものは、少なからず恨みを抱きます。

次に、人より優れていることや自慢なども、人から恨まれやすい。
これは恨みというよりねたそねみにつながりますが、それでも反感を買いやすいという点は共通。
そういった意味では、いかに幸せかを自慢する場であるツイッターやフェイスブックなどSNSは、恨みや嫉妬の気持ちを増幅させる環境といえるでしょうね。

私自身、些細な言動で恨みを抱くことが多いのですが、その一方、逆に私を恨む人もいるでしょう。
しかしながら、私は極力、恨まれないように過ごしています。
現に自分が恨み深いので、どんな言動が恨まれるのかという事柄は、よく理解しています。

人との会話では相手の意見を否定しないように心がけています。
どうしても伝えたい時は、「なるほど、そうなんですね。実はその話にこんな意見もあって」、「~らしいですよ」など、自分ではない「他者の意見」として回避するなど、言い方を工夫しています。
このように、角を立てない表現にすることが大切です。

批判や否定は、本当に恨みを生みますからね。
会話中、「私はその考えと違う」と言われたら、一瞬でも反感を抱きますよね?
こういう何気ない一言も、恨みの種であることを、十分に知ってもらえたらと思います。

人格否定の次に、許させないことは、自己中心で傍若無人な振る舞いをする人でしょうね。
しかし結局は、おごり驕った先には、恨みを晴らされるという未来が待っています。
私はそういう人を見てきましたが、必ず因果応報な目に遭っていますからね。

エナジーヴァンパイア

「エナジーヴァンパイア」という言葉を、ご存知でしょうか?

エナジーヴァンパイアとは、相手から生命力や精気、運気などのエネルギーを吸い取り、自分のエネルギーに変えてしまう人を指す言葉です。

例えば、「○○さんと話しをすると疲れる」「マイナス思考で自分まで暗くなる」などがあります。
相談といい愚痴をこぼされ、本人はスッキリしても聞かされた側は疲れるということがありますね。
それはエネルギーを吸い取られた証拠です。

相手の気持ちを察することができない、面倒で疲れさせる人たち。
彼らは無自覚であり、悪意がないのが特徴。

そこで例として、私が実際に関わった人物を紹介。
・Aさん
決して悪い人ではないのですが、なぜかその人と話すと疲れます。
他人の悪口は決して言わない点は素晴らしいのですが、一方的に自分の話を進め、また場の空気が読めないところがあります。
正直、疲れます。(観察していると自分だけではなく、周りも同じ思いの様子)

・Bさん
常にマイナス思考で「自分は馬鹿だから」「存在価値がない」など、常に自らを卑下し(謙遜のつもりらしい)、また思い通りにならないと不機嫌に。
気を思い、散々慰めたりなどしてあげましたが、その度に疲れます。
私は表向き上、明るく振舞っているのですが、やはり気持ちは暗くなることが多かったです。

・Cさん
とにかく話が、つまらない人です。
事あることに自分の話から始まり(日記を読まされている感じ)、自慢話も挟むので、正直疲れます。
この人は、それなりに空気も読めるし、ネガティブな発言など一切ないのですが、とにかく話がつまらないというのが欠点でした。

まだ他にも色々いるのですが、書き切れないので省略させていただきます。

エネルギーとは「気」のことであり、自分自身で見出すもの。
他人から奪い取るものではありません。
エナジーヴァンパイアは、自分自身でエネルギーを作り出せない、哀れな存在。
それゆえに誰かに寄生し、吸い取っていくことしかできない。

対処法は、関わらないことで万事解決します。
私はそんな人たちと連絡を取らず疎遠になりましたが、関わっていた頃に比べると運気は高まりました。

しかしながら、友人知人以外にも、両親や兄弟といった身内に存在する場合も多い。
身近すぎて気付かず、知らぬ間に、エネルギーを吸い取られているのかもしれませんね。

エナジーヴァンパイアの特徴は、今回の例だけでは収まりません。
まだ他にも色んなタイプのエナジーヴァンパイアはいます。
これの特徴をまとめているサイトなども多いので、一度チェックしてみてはいかがでしょうか?

さて今回の記事で気が付く点があります。
相手の悪い点ばかり見つけ出し、それを記事として書き綴る自分も、同じ穴のムジナだということに。

捨てることで得るもの

風水的に、物を捨てることは、非常に良いことです。
数年前、「断捨離だんしゃり」という言葉が流行ったことがありましたね。

私は今月に入り、本、漫画、ゲーム、CD、衣類、キャラクターグッズ等の、不要な物を全て売り払いました。(物の一つ一つについて書きたいが、長文になるため割愛)
以下、「私はこういう人間だ」という話と、本題の「捨てることで得るもの」という流れで、書いていきます。

「私は倹約家」
数年前から倹約に心がけており、食事やゲーム以外では、ほとんどお金を使いません。

しかしながら、倹約に目覚める前の私は、本や服、パワーストーン、植物、キャラクターグッズなど、衝動買いすることが多かったのです。
また、物をコレクションするのが一種のステータスに感じ、それをアピールするのがすごく好きでした。
しかし、それが積もりに積もって、ふと冷めるわけです。

それからというもの、その集めた物を目にすることが、とても憂鬱となっていきました。
押入れの奥深くにしまっても、結局は自分の家にあることには変わらず、整理整頓の時など目にするたび、それはもう辛い気持ちになります。
売ろうにも何だか手段がおぼつかず、何だかんだで約数十年間近く放置しておりました。

その長い月日を経て現在。
今月を皮切りに、それらを一掃処分することで、憂いを晴らすことにしたのです。

倹約家を名乗る今の私は、一日一食で食費を抑え、趣味で使う時は新作ゲームのみとしています。
正直、本や小説は図書館で借りればいいし、服はお気に入りの数着しか着ないし(約数年、服は一切買っていない)、情報や娯楽は全てインターネット。
キャラクターグッズやらは今後一切コレクションすることはないので、絶対に買うことはないわけです。
もはや節約は趣味といっても過言ではないほど、定着しております。

そして今回、不要物を整理整頓することができ、心から清清しい気持ちとなり、心なしか多少ながらも、人の縁、金の円も循環するようになりました。

「捨てることで得るもの」
水は流れるから常に清らかであり、滞れば水は濁る。
空気は流れるから常に新鮮であり、滞れば邪気が溜まる。

実は人間にもこの法則が当てはまります。

とはいえ、新しい人間が良く、同じ人間ばかりと関わるのは悪い、といっているわけではありません。
しかし、人生において、様々な人と出会うことで、たくさんの有益な情報を得ることは多い。

実は縁を切ることは大切。
縁を切っていかないと、驚くほど新しい出会いは巡ってきません。

携帯電話のアドレス帳を見ていただければ良いのですが、もう疎遠で関わらない人っていますよね。
そういう場合、アドレス削除をオススメします。
アドレス帳も風水の一種ですから、不要な人は切り、必要な人は残す。
不要な人は結局は不要です。

相手に悪いかも何て思わないように。
自分の人生なのだから、自分が削除したいと思えばすれば良いのです。

結局世の中は、「幸運を得るためには不要なものを整理する」という真理に基づいています。
そしてその真理は、仏教の謳っている「物への執念を捨てる」思想の意味につながるわけです。

そんな私は、物に関する執念は捨てられるのですが、人に関する執念は捨てられない。
なぜって?
それは、恨みがあればあるほど、執念深く呪い続ける性格だからです。

一日一食は聖者の食事

仏教には「一日一食は聖者の食事、一日二食は人間の食事、一日三食は動物の食事」という言葉があります。
不思議なことに、西洋のことわざにも「一日一食は天使の食事、一日二食は人間の食事、一日三食は獣の食事」というものがあります。

「一日一食」と宣言すると、人から心配されたりし、広く不健康なイメージがありますよね。
人は「一日三食」が当たり前と植え付けられているだけで、実際一日一食で、病気になったりすることは一切ありません。
むしろ、一日一食は不老長寿につながると証明されています。

人間とはそもそも、歴史上「飢餓」との戦いを繰り広げてきた生き物です。
その飢餓に対し、生き延びられるよう進化してきた経緯あっての今であり、食料豊富な時代とはいえ、その力は遺伝子に組み込まれています。(これは動物一般に言えることですが)
それゆえに、餓死レベル以外であれば、たいていの空腹には耐えられるようになっています。

ゆえに空腹状態は、身体は生き延びるために、細胞を活性化させたりなど、あらゆる手段を使い始めます。
それが不老長寿などにつながるわけなのです。

しかし、人間は空腹への耐久力がある一方、逆に満腹状態は苦手だったりします。
食べ過ぎは胃のダメージになる、腹八分が良いとか、色々聞きますね。
それは体内で消化に使うエネルギーを多く消費し、さらに消化という過程で各臓器に負担が掛っているからなのです。

一日一食のデメリットは、筋肉が落ちることです。
また、水分不足になりやすくなります。
食事の時、人は食物に含まれている微量の水分を同時に確保しています。
一日一食は食べ物を口にすることがほぼなくなるため、常に水分を摂取しなくてはなりません。

しかし一日一食は、人を強くさせます。
耐久力や忍耐力も付きますし、頭の回転も前よりか冴えるようになったり、修行のような気持ちが高まり、心身共に「生きている」というエクスタシーを感じるように。
容姿に関しても、華奢、肌質向上、若返るように感じるはずです。

さらに一日一食は、食費を抑えることができますから、倹約家にとっては嬉しいですね。
食料に関しては、緊急災害時があったとしても、生き延びられる自信がありますね。

メリット、デメリットはありますが、結局は自分の身体と相談しなくてはなりません。
いきなり始めるのは厳しいと思いますので、まずは食事の量から減らしていくことをオススメします。

不老長寿、病気にならない身体を得る一方、栄養失調には気を付けましょう。

縁を切るは幸運

今回はスピリチュアルなお話を。
オカルト、スピリチュアルなどに興味のある方であれば、一度は聞いたことのある「魂レベル」。
魂レベルとは、要するに精神年齢のようなもの。
ことわざで「三歳の翁、百歳の童子」というのがありますね。

この世は「類は友を呼ぶ」の法則で、自分と似通った人たちと仲間になります。
仲の良い友人や知り合いなどを見ると、自分と似ているところがあるかと思います。人は鏡ともいい、相手の良い面・悪い面は自分も有しています。

例えば学校でのグループは似た者同士なはずです。また客観的に見て、性格の悪い奴はやはりそれに相応しい人格と共に塊になっているかと思います。
相手がどういう性格かを知りたいかの判断材料は、その相手が所属しているグループを見れば一目瞭然でしょう。

自分よりも魂レベルの低い人と関わると、自身の魂レベルを相手の低さまで下げ、関わることになります。
最初の頃は仲が良かったけれど、何となく合わなくなってきたは、レベルに差が出始めた証拠です。

親友がいたとします。
例によって、性格が合わなくなったとか、むしろ嫌いになりつつ状況であるとします。
そういう時、魂レベルの話を知っている人は、こう思うはずです。
「魂レベルに差が出てきたんだ。だとすれば自然と縁が切れるはず。もう少し我慢しよう」と。

確かにいずれは縁が切れるでしょう。
しかし私個人は、自然に縁が切れるのを待つのは馬鹿らしいと考えます。
もう関わりたくないと決めたら、さっさと縁を切りましょう。

前述にあるように、魂レベルの低い人と関わると、自分の魂レベルを一旦下げなくてはなりません。
それに合わせるのを繰り返すと、相手に引き込まれ自身の魂レベルが下がったまま停滞するようになります。

実は縁を切ることは運気を上げることにも通じます。
嫌いな奴とはさっさと縁を切り、新しい出会いを取り入れましょう。
でないと、いつまでも一部の人たち(魂レベルの低い人たちの場合に限る)といると、新しい風が入ってきません。

しかし、縁を切ることに多少なりとも抵抗や恐怖があるならば、実行しない方が良い。自分の心に従った方が良いですから。
本当に縁を切ってもいいと思えるほどの相手だったら、すんなり縁を切る判断ができるはずですし、縁切りを惜しいと思ってしまうならばやはりその人と縁があるのでしょう。
また、縁を切ったところ、その人と本当に縁があるならば、生きている間に必ず再会します。

私も色々な人と関わってきましたが、マイナス思考でネガティブな事ばかり言う人がいました。
「どうせ自分なんて、○○だから」的な感じで、人に慰めてほしいのか、事あるごとに自分を蔑む人がいました。
そのたびに、私まで暗い気持ちになり、面倒だなと思うことがありました。(人は鏡というから、自分にも有する部分もあるのだろうけれども)

この場合、自然と縁は切れましたが、どうせ切れるのならば、さっさと縁を切っておけば良かったと思っています。
自然と切れるまでの時間がもったいないと思ったからです。
どうせこの先、縁が切れることを分かっていたのですから、尚更です。(この頃の私は、自分から縁を切ってはいけないと信じていた時期だった)

私の縁の切り方は、疎遠になることです。電話やメール一切を無視するなど。
直接何か物を言ったり、不快な事をするなどの強制絶縁はいたしません。(余計な恨みを買われますからね)
ゆえに、恐らく相手は嫌われていることに気が付かないはずです。
無視することで疎遠になる方法はスタンダードでありながら、争いを避ける最も良い方法なのです。

私の場合、恨みや呪いをかけるほどでもないけれど、妙に腹立つ相手の時に、縁切りを実行。(謝罪があれば、基本許しますけれどね)
しかし、些細なことで恨みや呪いをかけたりする私のような人物から、縁を切られるというのは、ある意味で運が良いと思いますね。

友人は自然と集うのがいいかもしれません。
しかしある程度の「厳選」も必要です。

不要な人は、たくさん縁を切っていきましょう。
自分自身の運気を上げるためです。
「自分」を大切にしない人は、やはり「自分」を大切にしてくれない人を引き寄せます。
自己愛とまではいかないにしても、自分を大切にせず犠牲にしてまで生きる人生って私は嫌ですね。

縁を切るのは簡単なようで、難しい。
学校や職場などで、縁を切りたくとも切れないことが多いのも事実です。
「自分が相手の性格を良くする」と豪語する人もいるかもしれませんが、相手の性格・個性は人の手では変えられません。
人は人を生まれ変わらせることはできません。(人生の左右に影響を当たることはできても、結局人生とはその人自身が決めること)
変えられるのは自分自身だけなのです。

仕事、社会人の場合、縁を切る方法があります。
それは自らその仕事を辞めるという方法。
なぜ自分が辞め、相手がのうのうといられるのかで不満という点もありますが、そんな人物を雇っている会社に問題があると思いますから、辞めて正解だということに気が付きます。
会社にとって、あなたのような常識人を失ったことは大打撃なはずですからね。(そもそも打撃だとも気が付かない会社はその程度の会社)

縁を切ることは決して「悪」ではありません。
風水的に整理整頓は運気をもたらすことで知られますが、人間関係にも整理整頓は必要です。
ゆえに、相手から整理整頓されないような人物になりましょう。

数百年後は「無」になる

人生において、悩みや秘密がなくなってほしいと思うことはありませんか?
特に知られたくない過去などは、生きている間はもちろんの事、死後も覚えられているのかなと思うと、嫌になることがあります。

過去に戻って修正ができたらなど、思うことはありますよね。
しかし、考え方が変わりました。

数百年後、今生きている人たち、誰も存在していないのです。
偉人でもなければ、歴史に名が残ることはありません。

数百年後は、誰も自分の事は知らないし、自分を知っている人もこの世にいない。
そういう考えを持つと、悩みや秘密がどうでもよくなります。

また、「諸行無常」という言葉もある通り、この世は常に変化。
数百年後の未来はおろか、世界滅亡だってあるかもしれない。

仏教の最終目的は、輪廻転生からの離脱、即ち「無」になること。
現実世界においては「時の流れ」が、いずれ自分の存在を「無」にしてくれるのです。

仏教・生きる意味

「生きる意味」とは何か?誰もが一度は悩む、永遠のテーマですよね。
仏教には答えがあります。

生きる意味は、悟りを開き「解脱げだつ」するためです。
輪廻転生りんねてんしょう自体が「苦しみ」であり、その繰り返しから抜け出す事を「解脱」といいます。
解脱した先にあるものは「無」(魂の消滅)です。この状態を「涅槃ねはん」と呼びます。

「無」こそが私たちが望む、究極の、最終目的地。
解脱するためには、何度も何度も転生をし、カルマ回収・魂レベルの向上をしなくてはなりません。
つまり、私たちが今生きている(現生)意味は、徳を積み霊格を上げることが目的。
多くの人は、カルマを回収し切れなかったりするでしょうから、来世もあるかと思います。

富や地位、権力、名誉は死んだら何も役に立ちません。
あの世に持っていけるのは、この世で積んできた「徳」のみです。(そしてその徳の分だけ来世に影響が出る)

「世の中、不公平だ」と嘆く人は多いと思いますが、実は前世でどのくらい徳を積んだかの結果が「現生の姿」です。だから、そういった意味では「公平」なのかもしれません。

この世は困難、苦しみは必ずあります。(そもそもこれが無ければ魂レベル向上や修行ができない)
「幸せ」とは、この苦しみの人生をくぐり抜けるための、支えと癒しだと思って下さい。
誰だって辛い事ばかりで、楽しみがないと、続けられませんよね?簡単に言えば、「休息」みたいなものですね。

富・地位・権力・名誉が通用するのはこの世だけ。
死後の世界には役に立たないし、来世まで受け継ぐこともできない。
それなのに、人を蹴落としてまで、手に入れようと執着することは、非常に愚かしいことです。
また、手にした権力を私利私欲に使えば、その分、来世に影響は出るだろうし、解脱から遠のいていく結果となります。
欲望と執着が生むものは、霊格向上には繋がらず、むしろ下がる一方であることに気が付いてほしいものです。

自殺は罪。
苦しみから逃げるために自ら命を絶つ。これは非常に愚かなこと。
自殺体験者によると、死後の世界と思われるその先には、真っ暗闇の阿鼻叫喚の地獄が待っており、彼曰く絶望し大後悔したとあります。(その人は奇跡的に生還)
「無」とは、究極の目的ですから、自殺で達成できるのでしたら、私など当の昔に命を絶っています。

生きる目的これ即ち、徳を積み、罪を憎むこと。そして「解脱」への一歩を進めること。
何度も繰り返す転生から抜け出し、究極の状態「涅槃」を目指しましょう。

カルマの法則

今回はカルマの法則について。

カルマ(業・行為)とは、分かりやすく言えば「植物の種」。
蒔いた種(原因)は、必ず発芽(結果)する。

善を行えば善い事が、悪を行えば悪い事が。
これがこの世界の法則です。

「善行を積んでいるのに悪い事ばかり」「悪人に限って好き勝手生きていられる」という理不尽さを感じたことって、あるかと思います。
しかし、先も言った通り、この世界はカルマの法則が存在します。

例えば、植物にだって、種を蒔いてすぐに発芽するものと、そうでないものが存在しますよね。
つまりそういう事で、時間差で行った業は返ってきます。

さて、私たちはなぜこの世界に生まれ、人生を歩むのか。
その目的は、権力・地位・名誉・富を求め、幸せになるためでしょうか?

ご存知の方も多いと思いますが、この世はある意味で修行であり、今生・前世に蒔いたカルマ回収が目的です。
一度蒔いたカルマは、報い(結果)を受けない限り消滅しません。(その点は、植物が枯れるようにとはいかない)
その芽を刈り取る目的が、人間界に生まれた意味です。

今生で悪さをしていないのに「なぜ自分ばかりが苦しみを」と思う方は、残念ながら、前世の自分が蒔いたカルマが存在しているからです。
報いつまり苦しみを受けることで、カルマが消滅するので、むしろその辛苦を喜ぶべきなのかもしれません。

よく「ポジティブ思考」という言葉を耳にしますが、「報いを受けてカルマが一つ消滅」という意味の前向きさを指しています。
私もよく嫌な事があったりすると、「これで一つカルマが消えた」と喜んでおります。

ところで、「誰も見ていないのに善行を積んでも虚しい」、逆に「誰も見ていないし物を盗んでも大丈夫だろう」、そういうことってあるかもしれません。
しかしながら、それら行為は時間差で全て必ず返ってきます。

それゆえ、大小なる善行悪行は、「誰も見ていないから」という問題ではありません。
オカルト的に言えば高級霊が守護霊が見ているから、というのもあるけれど、そもそもこの世界がカルマの法則(水や空気が存在するように)で構成されています。
何せ、長い歴史において釈迦などの偉人がそれに気付き、今に至るまでその法則が存在しているわけですからね。

ではまとめ。
・この世は苦しみが大半を占めているが、それは修行でありカルマ回収が目的。
・誰かが見ている見ていないは関係なく、そして時間差で必ず報いは返って来る。
・嫌な事や苦しみ事があれば、それには必ず原因があり、自分の行いを省みる必要がある。(身に覚えがなければ前世のものかも)
・原因から結果、報いを受けたことで、カルマがひとつ消滅したことを喜ぶこと。(これこそが本来のポジティブ思考)

私はこの真実を知って以来、絶対に悪事はできないと思いましたね。
人に対して小言や悪口、行為、その他含めたどんなに小さな悪事であっても。
もはや私は、来世のために、悪いカルマを蒔かないように気を付けています。

補足ですが、その苦しみのカルマを刈り取る行為は、別にその結果を待つというわけではありません。
それは、善行を積んでそれを打ち消す方法です。
苦しみを待つのは恐ろしいので、今日からでも善行を積むようにしましょう。
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プロフィール

霊睡蓮

霊睡蓮(レイスイレン)
1989年生まれ/大分県/AB型
コノ恨ミ……晴ラシテミセル……
根に持つ性格で、その恨みは呪いを以て晴らす。
プロフィール詳細

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