小説紹介『蒼穹の昴』

今回は、長編小説『蒼穹の昴』(著・浅田次郎)を紹介。
日中共同制作でドラマ化になったほど人気があり、大変評価の高い作品です。

時は、中国清王朝末期(光緒時代)。
主人公・李春雲(春児)は、貧家の子であり、糞拾いで生計を立てていました。
そんな春児に、占い師・白太太は、「天下の財宝を全て手中に収めるだろう」と予言します。
この予言を信じた主人公は、西太后のいる後宮に入るため、自ら去勢し宦官になります。

同郷で有力な梁家の次男・梁文秀(史了)は、春児にとって義兄であり、春児をよく可愛がっていました。
そんな梁文秀は、科挙試験より首席で合格し、皇帝を補佐する官僚の道へと登り詰めます。

朝廷では、西太后派の「后党」、光緒帝派の「帝党」が激しく衝突していました。
春児は西太后の腹心となる一方、文秀は光緒帝を補佐する若手官僚の中心となります。
こうして、春児と文秀は義兄弟ながらも敵同士になってしまうのでした。

この作品は、登場人物がたくさん出てきます。
あの李蓮英は、後宮の宦官たちを束ねる、大総管太監として登場します。
前任の安徳海を失脚させ、西太后の腹心となった宦官であり、のちに西太后の寵愛を受ける春児を敵視するようになります。
西太后と李蓮英によるやり取りがあり、両者の掛け合いがシュールで、絶妙に面白かったのが印象的です。

個人的には、光緒帝派の宦官・蘭琴が気に入っています。
彼は、春児と同期の宦官であり、春児を兄のように慕っていました。
しかし例によって、春児は西太后派であり、蘭琴は光緒帝派の宦官。

次に、西太后について。
西太后は「老仏爺」(慈悲深い生き仏)を名乗り、万民に崇拝を強いらせる一方、後宮では機嫌の悪い時などには、宦官たちに棒打ちの罰を与えたりしていました。
そして、権力を脅かす存在があれば処刑を命じ、国財を奢侈に浪費し、清王朝を大きく衰退へと導きました。

そんな独裁者のイメージを、本作品では異なる視点で描かれているので、西太后に対しての印象が少し変わるかも。
例えば、乾隆帝(亡霊)から、清王朝に終止符を打つよう命じられ、あえて悪女になることを決意する場面や、実は光緒帝を我が子のように可愛がり、それゆえその苦労を味あわせたくないという理由で実権を譲らなかったりなど。
作中の、西太后の完全プライベート時の口調などからでも、その印象はよく滲み出ています。

この作品は、中国の文化や思想知識、歴史的背景の描写や雰囲気などが事細やかに取り入れられ、さらに登場人物たちの心情は日本人の心情に合わせた表現で描かれているので、そういった意味では馴染みやすいものとなっています。
また個人的には、ややオカルト要素のあるところが気に入っています。
例えば、先にあるように乾隆帝の亡霊が現れたり、梁文秀が不思議な体験を以って進士通過する場面など。

『蒼穹の昴』は、価値ある作品であることは間違いないので、ぜひとも一読してみて下さい。
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万貴妃に背いた宦官

中国明王朝、成化時代。

後宮では、成化帝せいかていの寵愛を独占する万貴妃ばんきひが、権勢を振るっていました。
成化帝と万貴妃は、20近くも年が離れており、かつ万貴妃は世継ぎの子を産むことができませんでした。

嫉妬深い万貴妃は、自分以外の妃が懐妊したと聞くと、すぐさま堕胎を命じていました。
万貴妃の悪行を疑わない成化帝は、自身に子ができないことを、深く悩み続けていました。
後宮の宦官たちはその事実を知っていましたが、万貴妃の権勢を恐れ、見て見ぬフリをしていました。
しかし、宦官・張敏ちょうびんだけは、納得できなかった。

そんな時、側室の紀妃きひが懐妊します。
万貴妃は、張敏を使者とし、堕胎薬を送るよう命じます。
(陛下が世継ぎで悩んでおられるのに、何ゆえ万貴妃の事情で動かされるのか)
彼は万貴妃に背き、紀妃の産んだ皇子・朱祐樘しゅゆうとう(のちの弘治帝こうちてい)を、密かに育てることに。
万貴妃の魔の手から、様々な偽装で誤魔化し、張敏は身を張って皇子を護り続けました。

それから数年が経ち、成化帝は、張敏に愚痴をこぼします。
「今日に渡り、子を作ることができなかった。そんな朕を慰めてくれ」
「陛下にはれっきとした世継ぎが存在します」
「……朕の子はもういないはずだが」
「実は、誰かの手により大切に育てられた皇子がおられます。すでに6歳となります」
成化帝は大いに喜び、直ちに皇子・朱祐樘と対面。
そして皇子は、母・紀妃の元に移され、抱いて泣き合うことに。
しかしその後、紀妃は謎の死を迎えることになります。(おそらく、万貴妃が毒殺したと思われる)

万貴妃は大いに荒れますが、皇太子を立てられてしまった以上、何もできなくなります。
それ以降、他の妃が懐妊しても、妨害することがなくなりました。

それを見定めた張敏は、自害。
万貴妃を欺いた罪を自身で被り、命を絶ちました。


朱祐樘こと弘治帝は、「明中興の祖」と称されるほどの名君。
そんな名君を、並々ならぬ苦労で死守した、宦官・張敏に感謝。
明王朝は、邪悪な宦官ばかりが目立つため、張敏のような人物に光が当たることが少ない。
陰ながらも大きな影響を与えたことを、認知していただければ、彼もきっと救われることでしょう。

関連記事 『明の悪女・万貴妃』

一言で民を救った宦官

昨日の続きです。
宋が南漢を制圧した時の話。

宦官・余延業よえんぎょうは、身体が小さく、発言に善悪の区別ができなかった人物。
そんな余延業は、宋軍が郴州城を攻めて来た時、たったひとり城内にて取り残されてしまいました。
そして、陥落と同時に捕虜となります。

宋の太祖・趙匡胤は、余延業に事を尋ねます。
「汝は、何の官職にあったのか」
「私めは、扈駕弓箭手の官にありました」
(扈駕弓箭手とは、皇帝の行列に参列し弓矢を持って護衛する役目)
「弓を引いてみよ」
太祖は、弓矢を余延業に渡し、試射してみるよう命じます。
ところが彼は、力一杯に弦を引き、矢を射ろうとしますが、何度も失敗してしまいます。
これを見た太祖は、笑いながら、こう言いました。
「汝の主の政治は、どうであったか」
「後主は、『焼』『煮』『剥』『剔』などの拷問を考案し、罪人に虎を捕まえさせたり、象と闘わせたりしました。入城する者からは交通税を厳しく取り立て、瓊州では米一斗に四・五銭を徴収しました。また媚川都を制定し、海にある宝珠を民に獲らせ、その宝珠で宮殿を飾り立てる一方、歳時には、豪族にその費用を供出させていました」
これを聞いた太祖は、大いに哀しみます。
「私は、汝ら民を救わなくてはならない」

南漢を併合した宋は、拷問なる刑罰を廃し、媚川都の廃止、交通税もわずかなものとしました。
人民はこれを大いに喜び、余延業はたった一言で、最大なる功績を挙げたのでした。


元より宦官は、本性を隠し、首尾よく権力者に取り入る種族。
一般的な宦官であれば、「後主のことを悪く言えば、忠誠心のない者として斬られるかもしれない」と不安がり、真逆の言葉を伝えていたかもしれません。
しかるに、偽りなく語るなど、宦官にとっては致命的な事柄なのです。

余延業は、発言の先を考えず、思ったままに話しました。
しかし結果的に、この拙い性格のおかげで、多くの民を救うことになったわけです。

秘密警察を動かす宦官・汪直

明王朝は、暗愚な皇帝が多く、宦官が権勢を欲しいままにしていた時代。
今回はその内の一人、宦官・汪直おうちょくを紹介。

汪直は、初め万貴妃ばんきひに仕え、その後成化帝せいかていに重用されるようになります。
秘密警察・西廠せいしょうが設置されると、初代提督として就任します。
大獄を引き起こし、約五年間、その犠牲者は数百人余りも上るといわれています。

「まず逮捕してから、罪を探す」という方法を取っており、当然罪のない人たちも含まれ、その惨禍は天下に恨まれることになります。
のちに政治を専断すると、北辺への遠征も行い、軍をも手中に収めようとします。

しかし、傍若無人な行為に対し弾劾され、世間から非難の声が上がり、失脚。
成化帝の信任も失い、「奉御官」に降格され、何もできない宦官になりました。

明帝国は、しばしば秘密警察が登場し、その長官に、宦官が就任するという異常な時代でした。
劉瑾や魏忠賢なども、これを利用し、天下万民を恐怖と絶望に震え上がらせることになりました。

福建の奇習と宦官

宦官といえば、後宮に引きこもり、陰湿で薄気味悪く、忌み嫌われる存在。
しかしそれは、一般人から見た負のイメージ。実際、そのような人たちばかりではありません。

宦官には選考基準があり、年の若い美男、しぐさがエレガント、言葉巧みな美声、臨機応変なる利口さなどが挙げられます。
当然、それら理想像は、誰でも身に付けられるものではありません。

宦官になるためには、去勢さえすればいい、というわけではなく、去勢はあくまでも「資格」。
資格のみならず、容姿・能力重視は、現代社会に通じるところがありますね。

ところで、中国・福建は、男色の本場ということはご存知でしょうか?
中国六朝時代より、同性結婚は、大ブームとなっていました。(夫婦の離婚が相次いだほど)

貴賤問わず、皆が男に夢中となり、年上を「契兄」、年下を「契弟」と呼んでいました。
契兄が契弟の家に来ると、その家族は大いに歓迎しました。
また片恋で終わった場合、相手を抱いて無理心中する者が後を絶たなかったそうです。

なぜ福建は、そのような奇習が生まれたのか。
海に近い福建は、「女を船に乗せると海神に祟られる」という言い伝えがあり、その代わりに男を乗せるようになったのが始まり。
しかるに福建は、「海の男」が多く存在するわけですから、ブーム時の人気は凄まじかったでしょうね。

余談ですが、日本も戦国時代は「衆道」といって、男色が盛んでした。
「戦場に女はいない」わけですから、その代わりに、というパターンです。

福建の奇習は、当然女性のような雰囲気を持っている者が多く、ゆえに宦官として出世に役立ったことは言うまでもありません。
唐時代、権勢を極めた宦官のほとんどが、福建出身となります。

マイナー宦官伝

今回は、明王朝で活躍した、マイナーな宦官を紹介します。

阮安げんあん
阮安は、建築家・水文学者として活躍した宦官。
発想が豊かで、非常に優れた才能を持っていることから、時の皇帝・永楽帝に寵愛されます。
彼は永楽帝から景泰帝と、何代にも渡り、皇帝に仕えていくことになります。

注目すべきは、北京周辺の建設に携わり、数ある宮殿の修復及び造営を成功させていることです。
さらに首都建設だけでなく、各河川の堤防造りにも取り組んでいました。

景泰帝の時代。
彼は、河川の氾濫を防ぐため地方に派遣されることになりますが、惜しくも赴任先で死亡することになります。

彼は、多大なる利益を明帝国にもたらしていますが、自身の財産はほとんど残していません。
当然、歴代皇帝からは莫大なる報酬を贈られているにも関わらず。
その理由は、彼自身非常に無欲であり、報酬のほとんどを国に捧げたからといわれています。(この影響で、明が困窮するに至らなかったほど)

懐恩かいおん
懐恩は、気骨で忠誠心が厚く、奸臣らからも一目置かれたほどの宦官。

成化帝の時代。
成化帝は、オカルトにハマり、政治的能力のない僧や道士を重要な地位に封じていました。
その影響で、無駄なる寺院建設などが行われていた時、ある臣下が諫言を入れます。
それに快く思わなかった成化帝は、その臣下に処刑を命じます。
この時、宦官・懐恩は成化帝を諌め、その臣下は処刑を免れたそうです。

しかし、皇太子廃立についての諫言を入れた時、懐恩は左遷されてしまいます。
のちに成化帝が崩御し、弘治帝が即位。
聡明な弘治帝の時代、左遷された懐恩は「司礼大監」(宦官の最高位)になります。
懐恩はその地位を利用し、無能な人物や佞臣らを駆逐し、賢臣らを推挙するなどを行いました。
それらの行いにより、腐敗しつつあった明帝国に、「賢臣重用」の風潮ができることになりました。


世間一般では、悪名高い「宦官」。
奸臣ばかりが歴史に名を連ねていますが、清らかなる性格や才能を持ち得ている人物も多い。
しかし後者は、広く伝わっておらず、全く持ってマイナーな人物として扱われています。
実際、日本のネット上では誰も取り上げていないほどの認知度です。

チベットを踏破した宦官

中国明王朝、永楽・宣徳年間に活躍した宦官・候顕こうけんを紹介します。

彼は、あの中国三大宦官・鄭和ていわと同時期に活躍した宦官です。
ゆえに、鄭和の影に隠れており、いまいち世間では知られていない、マイナーな人物。
しかし、候顕の功績は、鄭和に次ぐものでした。

候顕は、時の皇帝・永楽帝えいらくていの勅命により、西域に派遣されます。
明帝国は、彼によって初めて、秘境チベットに足を踏み入れることになりました。

大部隊を率いた候顕は、約二十二年間、五回にわたって派遣されており、抑制策として大いに貢献しています。
当時、チベットに到着するまで、三年半の月日を費やし、その間非常なる困難が待ち受けていました。

艱難辛苦の果てに到着後、彼はチベットの高僧・ハリマを招来することに成功。
北京に戻った後は、永楽帝にハリマを紹介しています。

永楽帝は、ハリマを「如来大宝法王」「西天大善自在仏」に封じ、同時に候顕を「太監」(宦官の最高位)に命じました。
候顕に同行した約四百六十人には、それぞれ恩賞が与えられています。

その後四度、西南辺境に出征しており、ネパール、チベット高原からインド大陸まで及んでいます。
候顕は、「西域と交わり、現地人を招来する」任務をよく果たしました。


大航海時代を築いた鄭和は、多大なる功績を残し、現代においても崇められている存在。
しかし、彼と同時期に活躍した候顕の存在も、知っておいて欲しいものです。

宦官の作り方

今回は、中国清時代の宦官かんがんの作り方を紹介します。
かなり痛々しい記事になりますので、苦手な方は読まないようにお願い致します。

古代中国の去勢方法は、文献としては残されていません。
ただ当時は、「宮刑きゅうけい」(死罪に次ぐ重刑)として、宦官を集めていたわけですから、かなり乱暴な方法だったと思われます。
それなりに医療が発達していた近世中国の清ですら、麻酔なしの去勢ですからね。

刀子匠タオツチャン」と呼ばれる政府公認の執刀人がおり、一人銀六両(約三万円)を払えば、治療するまで責任を負ってくれます。
ただ、宦官志願者のほとんどが、貧乏人なため、即金で払えない場合が多い。
その場合、出世払いの形になりますが、当然身分保証人なしでは、手術は受けられません。

去勢手術の流れ
1、白いヒモ等で、下腹部辺りをきつく縛り、熱い胡椒湯で消毒。
2、執刀者は、「後悔はしないか」等の口頭確認を行う。もしこの時、不安の色を見せた場合は、手術は行われない。
3、承認後、執刀者は鎌状の刃物で、相手の男性器を完全に切り落とす。
4、切断後、白蝋の針または栓を尿道に挿入する。(傷口が盛り上り、尿道が塞がるのを防ぐため)傷口は、冷水に浸した紙で覆い、注意深く包み込む。
5、被手術者は、二人の助手に抱えられ、二~三時間室内を歩き回る。その後は、横になることで、十分な休息を取る。

これで一通りの去勢手術は、終了となります。
しかし、まだ苦痛は続きます。
それは、三日間水を飲まずに、寝たまま過ごす必要があるからです。
喉の渇きと、傷口の痛みと相まって、それはもう想像絶するものだそうです。

そして三日後、切断部に挿していた栓を抜き、噴水のごとく尿が放出できれば、成功となります。
当然、尿が放出できなければ失敗となり、後は死あるのみとなります。

偽宦官・嫪毐

時は春秋戦国時代。
秦王・政(のちの始皇帝)に仕えた、嫪毐ろうあいという偽宦官がいました。

まず、秦の宰相・呂不韋りょふいは、政の生母・華陽かよう太后と、不倫関係にありました。
長年、呂不韋と太后は関係を保っていましたが、老年になった呂不韋は、太后を満足させることが難しくなりました。
そこで呂不韋は、自分に代わる男性を用意することで、関係を終わらせようと考えます。
で、身代わりとして選ばれたのが、巨根男・嫪毐。
嫪毐は、自慢のアレを車輪に通し、それを軸にして車輪を回すという芸当を持っていました。
それを見た呂不韋は、この時、彼をスカウトしたようです。

呂不韋は、嫪毐を後宮に送り込む計画を立てます。

が、ご存知の通り、後宮は男子禁制。
後宮に出入りできるのは、女官と、男の機能を失った宦官だけです。

巨根が武器である嫪毐を、正規の宦官にさせるわけにはいきません。
そこで呂不韋は、彼を宦官のような容姿(体毛やヒゲを抜き取るなどを施す)に変え、去勢手術の記録を捏造します。
こうして、偽宦官となった嫪毐は、太后に接近。
淫乱な太后は、案の定、彼を気に入ります。
結果、太后と嫪毐の間に、二人の子供ができてしまいます。

さらに、太后の寵愛を受けた嫪毐は、絶大なる権勢を誇るようになります。(呂不韋の権勢を凌駕するほどだった)
しかし、この関係は、密告により露呈されてしまいます。

嫪毐は挙兵し、反乱を起こそうとしますが、政により返り討ちにされます。
彼は捕らえられ、車裂の刑により処刑されます。(嫪毐一族及び、例の子供も粛清される)
黒幕の呂不韋も連座を受け、結果この事件は、政に権力集中する契機となりました。

十常侍を牽制する宦官

中国後漢末期に、正義派宦官・呂強りょきょうという人物がいました。

後漢末と言えば、宦官たちが漢帝国を欲しいままに動かしていた時代。
幾度となく行われた政争「党錮の禁」により、反宦官派の党人(士大夫・官僚層)たちは、朝廷から追放されています。
この時、全国各地の士大夫派が惨殺され、厳しい拷問にかけられたそうですね。

霊帝の治世は、宦官集団「十常侍」が権勢を振るい、万民は恐怖と絶望に陥っていました。
さらに霊帝は、宦官たちに爵位を与え、十常侍・張譲や曹節などは列侯に封じられたほどです。
かの呂強は、都郷侯に封じられたのですが、なんと彼は、華族に列することを拒否したのです。

呂強は拒んだだけでなく、霊帝に対し「国の奸臣らに爵位など与えてはならない」と、上奏まで行いました。
しかし霊帝は、彼の諫言を受け入れることはありませんでした。

霊帝は、金銀財宝を好み、私財を蓄えることを趣味としていました。
そのことについても、「天下の財は全て陛下のものであり、なぜ蓄財にこだわるのでしょうか」と、呂強は諫言を入れるのですが、やはり聞き入れられませんでした。

そんな時、中国全土より「黄巾の乱」が勃発します。
この事態に呂強は、「左右の奸臣を誅殺し、党人らの解放を薦めます」と、霊帝に進言。
武官・皇甫嵩も同様に促し、ついに霊帝は、党人たちの禁錮を解くに至ります。

当然ながら、これらの事態を思わしく考えない宦官がいました。
そう、呂強に度々弾劾されていた十常侍です。
もし、このまま呂強の諫言が受け入れられるようになれば、自分たちの立場が危ないわけです。

十常侍・趙忠と夏惲は、呂強に対し、罵詈雑言の限りを浴びせました。
そして、逆に呂強を弾劾する上奏を行いました。
「呂強は党人らと謀り、皇帝を廃立しようとしています」

霊帝は、その上奏を信じ、呂強を疑うようになります。
そして、道理に暗い霊帝は、呂強を逮捕するように命じたのです。
これを知った呂強は、怒りと悲しみを抱き、自害することを選びました。

こうして、正義派宦官・呂強を失くし、数多くの知識層の人間が根絶やしにされるに至ります。
これは、後漢王朝崩壊を早める要因のひとつとなりました。

呂強の他に、「清忠」と称された数名の宦官たちが挙げられています。
彼らもまた、呂強と共に、邪悪な宦官を牽制していたことが分かります。

宦官といえば、悪のイメージが強いかと思います。
しかし、呂強のような正義感の強い宦官も存在していたわけなのです。
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霊睡蓮

霊睡蓮(レイスイレン)
1989年生まれ/大分県/AB型
コノ恨ミ……晴ラシテミセル……
根に持つ性格で、その恨みは呪いを以て晴らす。
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