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以徳報怨

老子の言葉に「以徳報怨いとくほうえん」(うらみにむくゆるにとくもってす)というものがあります。
怨みの相手であっても、復讐をするのではなく、 寛容な心で接するべきである、という意味です。
まさに、その言葉を表す、以下のようなエピソードがありました。

唐王朝、代宗だいそう皇帝の時代。
禁軍を司る宦官かんがん魚朝恩ぎょ ちょうおんは、素晴らしい功績をあげる武官・郭子儀かくしぎをひどく妬んでいました。

魚朝恩は、郭子儀の評判を下げようと、ある事ない事吹聴します。
そしてさらに、郭子儀の先祖の墓を掘り返すまでに到りました。(先祖の墓を掘り返されることは最大の侮辱)

朝廷の者たちは、きっと郭子儀は怒り狂うのではないかと、誰もがそう思いました。
しかし、郭子儀は一切そのことには触れず、何事もないように過ごしました。

気になった代宗皇帝は、郭子儀にそのことについて言及します。
郭子儀は、皆の前でこう言いました。
「先祖の墓を、掘り返されることを阻止できなかったのは、自分の過失です。今回の事件は私への報いです」

そんなある日。
郭子儀は、あの魚朝恩から招宴の知らせを受けました。

きっと郭子儀を謀殺するための宴に違いない、決して応じないようにと周りは言いました。
しかし、郭子儀は周りの反対を押し切り、わずかな兵を連れて宴に参加することにしました。

そして、郭子儀を迎えた魚朝恩は、そのわずかな護衛に驚きました。
魚朝恩の部下は、郭子儀が周りの進言を退け、宴にやって来たことを伝えます。

「私を全く疑うこともしないとは……あなた様はやはり大人物でございます」
魚朝恩は郭子儀の寛容さに感動し、これまでの無礼や嫌がらせ、敵対心を反省し、深々と頭を下げ詫びたのでした。
「お互い皇帝陛下に仕える者同士ですから、争い事は望みません」

改心した魚朝恩はその後、郭子儀のために、朝廷内から様々なサポートをするようになりました。


キリストの「あなたの敵を愛しなさい」のようなことは、普通の人間には中々できませんよね。
私が郭子儀の立場であれば、間違いなく「コ・ノ・ウ・ラ・ミ・ハ・ラ・サ・デ・オ・ク・ベ・キ・カ」と宣言し、報復していたことでしょう。

こういうエピソードを知るたび、自分は聖者にはなれないなと思いますが、目指そうとする気持ちが芽生えただけでも大きな成果だと思いました。
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オスマン帝国ハレムの世界

中国史好きな私ですが、実はオスマン帝国好きであったりもします。

オスマン帝国といえば、アジア・アフリカ・ヨーロッパに領土を誇った大帝国。
イスラム教をメインとし、キリスト教やその他宗教を弾圧することはなく、トルコ人を中心とした様々な人種が住まう多民族国家。

オスマン帝国の皇帝は「スルタン」と称され、「ハレム」と呼ばれる後宮にはたくさんの美女がいました。
そこで今回は、オスマン帝国のハレムの世界を紹介したいと思います。

ハレムの妃は「スルタナ」と呼ばれ、みな「奴隷」でした。
(ビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされて以来、白人系のスルタナが増え、それゆえ王朝の血筋は白人系が多くなる)
ハレムでは側室であれ、母后以外は一律「女奴隷」に過ぎない。

元来スルタンは、皇后を立てません。
イスラムでは正妻も側室も平等でなくてはならないという教えがあるためです。
しかし実は、とある事件があったからなのです。
それは、敵に皇后が誘拐され捕虜となり、その見せしめに彼らの宴会で全裸で給仕を強制させられたというもの。

これを知った皇帝は激怒。
怒りの理由は、(皇后の辱めではなく)「皇帝の名誉が傷つけられた事」であり、皇帝にとって、自分の妻に手を出されることは屈辱でした。
(嫡男を生んだ母后以外は全て女奴隷という考えは、女奴隷であれば、いくら盗まれても皇帝の名誉は傷つかないという発想に基づいていた)
それ以来、皇后は廃止されたというわけです。(スレイマン1世の時、この慣例が破られる)

次に、ハレムの妃たちの生活。
皇帝の寵愛を受けるまでは基本的に十人部屋でルームシェア。(彼女たちの世話は女官や宦官たちの仕事)

妃の一日の仕事と言えば、ハレム風呂と言われるスチームサウナに入り、天然の脱毛クリームで無駄毛処理をし、肌を磨くマッサージを受け、美しさを保ち増すことぐらい。
また化粧や衣装は、インド墨で眉を濃く長く描き、数百の宝石で身を飾り、有名なトルコ刺繍が施されたドレスを纏います。
残りの時間は、歌のレッスン、トルコ語の読み書き、暑い日はハレム内の豪華プールで水遊びなど。

これがハレムにおける「奴隷」の暮らし。
奴隷という名のイメージとは全くそぐわない、豪華絢爛な生活となります。

見事、皇帝のお気に入りになれば、寵愛の深まり方によって、他の妃とルームシェアする必要がなくなり、母后となれば、トプカプ宮殿に仕える全ての宦官の生活スペースよりも広い中庭を持つ特別な住居を与えられ、権勢を振るうことができました。
皇帝の死や廃位の後には、妃や母后らは、トプカプ宮殿から旧宮殿へ移され、余生を暮らすことになります。

18世紀以来、オスマン帝国のハレムはヨーロッパの人々にも公開されるようになります。
あるイギリス女性作家によると、「天使のように可愛い。衣装は贅の限りを尽くし、宝石の中に埋もれているといってもいいでしょう。こんな豪華で美しいものは見たことがありません」
(それと比較し、ウィーンの貴族たちのファッションや生活様式を「嘆かわしい」と一刀両断)

イスラム教の聖典コーランは、一夫多妻制については少なくとも薦めておらず、「二人以上の妻を同じようにするのは難しい」と、釘を刺している文面があります。
皇帝といえど、コーランの教えには忠実である必要があり、ハレムを持ちながらも生涯一人の女性としか付き合わなかったようです。(ハレムの美女と皇帝との乱痴気騒ぎを繰り広げていたイメージは空想であるらしい)

ハレムには「夜伽カレンダー」があり、皇帝はコーランの教えに遵守し、妃たちをカレンダー通り順番に、平等に扱っていました。(皇帝の寵愛を得たいと焦る妃が、賄賂で順番を変えたりすれば処刑されていた)
妃たちの間には、気の合う者や出身地による派閥も生まれ、かつ嫉妬や抗争が繰り広げられており、毒殺や絞殺は度々ありました。
ハレムでは性格の悪い女は追放されていましたが、そもそも皇帝の行いが悪いからと評されるため、皇帝も必死であったとか。

またオスマン帝国については、随時ブログで紹介していきたいと思います。
(今回、ハレムの事情については、堀江宏樹『後宮の世界』を参考にしています)

中国版イスラム国・太平天国

太平天国たいへいてんごくとは、中国清王朝末期、洪秀全こうしゅうぜんにより建てられた、キリスト教を信仰する自称国家。

洪秀全は、度々科挙に失敗したため、そのショックで病床に寝込んでいたが、その時、不思議な夢を見る。
その夢は、ヤハウェ(神)と思われる老人から世を正すよう命じられ、イエス=キリストらしき人物と共に悪霊退治の手助けを受けたというものだった。

洪秀全は広州に受験で訪れた際、宣教師の勧誘パンフレット『勧世良言』を入手した時、この不思議な夢の意味を理解し、キリスト教に目覚める。

1847年、広西省桂平県金田村に「拝上帝会はいじょうていかい」を立ち上げる。(自らをヤハウェの子で、イエス=キリストの弟であると称する)
数少ない賛同者の一人で友人の馮雲山ふううんざんが、布教活動を行い約三千人の信徒を得る。

1850年、拝上帝会は軍事組織「金田団営きんでんだんえい」を結成する。
鉄砲や大砲等の武器を密造し、革命の準備を進めていたが、清軍との衝突が発生。
1851年、拝上帝会(この時すでに会員数は約二万人)は、その数倍はある清軍を打ち破り、清王朝に反旗を翻した。(これを「金田蜂起きんでんほうき」という)

同年、拝上帝会は「太平天国」と改名し、洪秀全は自らを「天王」と称した。
太平天国の幹部である五人に、王位を封じて、五王体制を作る。

東王・楊秀清ようしゅうせい
西王・蕭朝貴しょうちょうき
南王・馮雲山ふううんざん
北王・韋昌輝いしょうき
翼王・石達開せきたつかい

東王・楊秀清は、「天父下凡てんふかぼん」(ヤハウェの神託)、西王・蕭朝貴は「天兄下凡てんけいかぼん」(キリストの神託)を勝手に称し、太平天国の信徒たちに命令するようになる。
この時、天王・洪秀全は二人を粛清しなかったため、後の天京事変を引き起こす要因になる。

1853年、太平天国軍は南京を陥落。
ここを太平天国の首都「天京てんけい」と改名し、全国に国家樹立を宣言。

太平天国は、スローガン「滅満興漢」を掲げ、満州族の風習である弁髪を拒否(そのため、清から「長髪族」と呼ばれる)した。
男女平等、纏足の廃止、土地均等配分、租税軽減などを掲げる。

勢いに乗った太平天国は、清王朝の首都・北京に、軍を派遣させるも失敗。
以後は、北京攻略を諦め、支配地域の維持を保つ姿勢に方向転換。

支配地域の維持が安定しつつあった時、「天京事変てんけいじへん」(太平天国の内部抗争)が発生。

太平天国ナンバー2の楊秀清が「天父下凡」を使い、太平天国を勝手に動かし、天王をも凌ぐ権勢を振るうようになっていた。

元々「天父下凡」や「天兄下凡」は、洪秀全が不在の時、動揺する信徒たちを沈静化するために用いられたのが始まりで、楊秀清が勝手にし始めたことだったが、洪秀全から信徒たちを安静させた功績として許可された。

後の清朝打倒を決めたのも、「天父下凡」を持つ楊秀清の命令であり、太平天国の政治や軍隊の実権は全て東王・楊秀清が掌握していた。

次第にエスカレートしていき、楊秀清は、教祖であり君主でもある天王・洪秀全に対し、命令するようになる。(ヤハウェの神託による命令という形なので、たとえ天王であれ、命令に従わなければならない)
時に、洪秀全は楊秀清の前に平伏させられ、棒叩きの刑に処されたこともあった。

独裁に走る東王・楊秀清を、洪秀全は排除することを決意し、洪秀全は北王・韋昌輝を動かし、楊秀清とその一族郎党約四万人を粛清させた。

しかし、翼王・石達開はこの事件を激しく怒り、北王・韋昌輝と対立。
対立の末、自分の妻子を殺された石達開は、韋昌輝の処分を洪秀全に求める。
これを知った韋昌輝は、洪秀全に牙を向け反旗を翻すも、逆に捕らえられ処刑される。

その後、洪秀全は、石達開と協力体制を敷くも、疑心暗鬼に陥っている洪秀全は肉親以外を重用するつもりはなかった。
洪秀全は、無能な兄二人にそれぞれ王位を与え、石達開を牽制。
これに不満が生じた石達開は、大軍を率いて太平天国を去ることに。

こうして太平天国は、天京事変が生じたことで弱体化。
金田村で決起した時の主要人物は、天王・洪秀全だけとなる。(南王・馮雲山、西王・蕭朝貴はすでに戦死している)

弱体化した太平天国に対し清王朝は勢い付き、天京を包囲。
この時、洪秀全は新しい幹部(李秀成りしゅうせい李世賢りせいけん陳玉成ちんぎょくせいら)を投入し、対抗。
新たな幹部の登場で、次第に形勢が逆転し、清王朝は再び敗することになる。

1859年、拝上帝会の頃から入信していた洪仁玕こうじんかいが天京に到着。
洪秀全は、洪仁玕に「干王」の称号を与え、新しい幹部の将たちにも王位を授け、忠王・李秀成、侍王・李世賢、英王・陳玉成とした。

しかし1863年以降、太平天国は支配地域を次々と失い、天京は孤立。
幹部らは洪秀全を見捨てたが、忠王・李秀成は清朝の包囲を破り天京に戻ってくる。

天京を捨てることを上奏するも、洪秀全は受け入れず、逆に天京防衛を命じた。
天京は兵糧攻めにより食糧不足に陥っており、雑草を「甜露」と呼び、食するほどにまで困窮することに。
1864年、天王・洪秀全、病死。
「私は天国に上り、天父天兄から兵を借りて、天京を守る」と述べ、これが洪秀全の遺詔となった。

同年、天京陥落。太平天国の乱は終結。
忠王・李秀成は、洪秀全の息子であり第二代天王・洪天貴福こうてんきふくと共に天京から脱出したが、後に捕らえられ、処刑された。

現在、自称国家「イスラム国」が話題になっていますね。
実はこれ、現代版太平天国と言ってもいいぐらい、よく似ています。

三大宗教といえば仏教、キリスト教、イスラム教。
オリジナル解釈を加えることで、仏教を改悪したオウム真理教、キリスト教を改悪した太平天国、イスラム教を改悪したイスラム国。
果たして許されることなのでしょうか。

しかしながら、中国史上初めて「男女平等」を訴えたのは、実は太平天国。
また、この大規模な戦乱に乗じて、民家に押し入り強奪を働いていたのは実は清軍。(太平天国軍はキリスト教の下、略奪行為など厳しく禁じていた)
それらに関しては、高く評価すべき点だと思います。

漢王朝最後の皇后・曹皇后

献帝けんていの皇后・曹皇后そうこうごうについて。
この人物は曹操そうそうの娘であり、名を曹節そうせつと言います。

彼女は、曹操暗殺を企んだ伏完、伏皇后ら一族が粛清された後、献帝の皇后として取り立てられます。
曹操としては、献帝や廷臣らを見張らせ、そして「外戚」となることでの地位強化が目的でした。

しかしながら、曹皇后は聡明な人物で、献帝の為によく尽くしていました。

のちに曹操が死去すると、彼の息子・曹丕そうひ(曹皇后の兄)が、献帝に禅譲を迫ります。
しかし曹皇后は、片時も玉璽を離そうとせず、催促する使者を追い返していました。

このやり取りは数日続きますが、ついに曹皇后は「兄は、陛下と私に対し容赦はしないでしょう」と妥協し、それに従うことになりました。
曹皇后は「天は祝福なされなかった」と言い、玉璽を投げ付け、涙を流したそうです。
・・・その場に居た者は、誰ひとり顔を上げることができなかったとか。

こうして禅譲により、献帝は「山陽公」、曹皇后は「山陽公夫人」に降格され、人知れず都から離れていったのでした・・・。

三国志ではマイナーな人物ですが、もっと評価されるべき女性かと思います。
曹皇后にとって、曹氏一族が帝位に就くことあれば、喜ばしいことのはず。しかし、彼女はそれを拒みました。
私自身、あまり曹氏一族は好きではないのですが、曹皇后のおかげもあり、少し見方が変わりつつあります。

太平道教祖・張角

中国後漢末期、「黄巾の乱」を引き起こした太平道教祖・張角について。



三国志の中では、霊帝、蹇碩と並んで、大ファンだったりします!
当時でしたら、間違いなく信者になっていましたよ、私・・・。

そんな尊敬しやまない張角様ですが、人物・教団については、すでにブログにて紹介しています。
『「黄巾の乱」を引き起こした宗教』(ブログ記事)

そこで今回は、『三国志演義』も含めての、張角を紹介します。

張角、張宝、張梁ら三兄弟は、郷試浪人として不遇の生活を送っていました。
ある日、張角が山に薬草を採集しに行ったところ、南華老仙に会い、『太平要術』の書が授けられます。
その書物には、風雨を自在に操る術、符水で病人を癒す術などが記されていました。
南華老仙は「天に代わり、世直しをせよ。しかし悪しきことに使えば、必ず報いを受ける」との天命を告げます。
(南華老仙は、道教の祖・荘子が仙人になった姿と伝えられています)

張角は、書物から妖術を身に付けたことで、自らを「太平道人」と名乗ります。
天下に疫病が流行ると、張角は符水を以って人々の病を癒したことで、さらに「大賢良師」と称しました。

張角は、新興教団「太平道」を立ち上げ、漢王朝に苦しむ万民を次々に信徒化していきます。
信者は何十万もの数となり、かねてより企んでいた国家転覆を、「世直し」の名のもとに、反乱を起こします。
張角自身は「天公将軍」、弟ら張宝、張梁は「地公将軍」「人公将軍」を名乗り、天下に号令を発します。

こうして、中国全土による「後漢VS太平道」は、激しい戦闘が繰り広げられることに・・・。
地公将軍・張宝は妖術を得意とし、それゆえ黄巾軍はオカルトの力を盾にし、漢軍を苦しめていきます。

そんな最中、張角が病死。
これにより、黄巾軍は急速に弱まり、結果後漢の勝利で終わりました。
しかし鎮圧後も、黄巾軍の残党やその他農民による乱は相次ぎ、後漢は深刻な事態となっていきます。
これこそ後漢に対する、張角による呪いだったのかもしれません。

黄巾の乱があったからこそ、無名の劉備や曹操が表舞台に立つことができたわけです。
その点を言えば、大変意味のあった存在とも言えます。
私自身、後漢も好きなのですが、太平道による「黄天世界」がどのような歴史を辿るのか、見てみたかったのも本心です・・・。

プロフィール

霊睡蓮

名前:霊睡蓮
1989年生まれ/大分県/AB型
コノ怨ミ……晴ラシテミセル……
根に持つ性格で、受けた怨みは一生忘れない。
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