日本三大悪女・藤原薬子

日本三大悪女の一人に、平安時代初期の女官、藤原薬子ふじわらのくすこという人物がいます。

藤原薬子の娘が、桓武かんむ天皇の皇太子・安殿親王あてのしんのう(のちの平城へいぜい天皇)の宮女になった影響で、薬子と安殿親王は不倫の仲になります。
「皇太子が妃の母である藤原薬子を寵愛する」といった醜聞を招き、激怒した桓武天皇は、彼女を宮廷から追放します。

桓武天皇が崩御すると、安殿親王が即位。
その影響で、薬子は再び宮中に呼び戻され、「尚侍」に任命されます。

「尚侍」とは、天皇の側に近侍し、様々な取り次ぎを行う、女官の中で最高位な官職です。
(古代中国で例えるのであれば、宦官の中で最高位な「中常侍」と同じポジションでしょう)

天皇の寵愛を一身に受けた尚侍・藤原薬子は、政治へと介入するようになります。
兄の藤原仲成なかなりと共に権勢を振るい、天下万民から深く恨まれるようになります。

のちに、平城天皇は病のため、弟・神野親王かみのしんのう嵯峨さが天皇)に譲位し、「平城上皇」となります。
平城上皇は、退位後平城京へ移ったため、結果「平安京」と「平城京」に二つの朝廷が並ぶようになります。
そのことで藤原兄妹が、「平城上皇の復位」を目的に、再び平城京の遷都を謀ったため、二朝の対立は深刻になりました。

結果、嵯峨天皇は平安京にいた仲成を捕らえ、薬子の官位を剥奪するのに成功。
彼女たちに罪を糾弾する詔勅を発します。

そのことで平城上皇は、薬子と挙兵のため東へ向かいますが、嵯峨天皇は先手を打っており、すでに征夷大将軍・坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろを派遣していました。
勝機のないことを知った平城上皇は出家し、薬子は毒を飲んで自殺するに至るわけです。
(この出来事を後に「薬子の変」と呼ばれるようになります)

藤原薬子に限らず、女性が政治に介入すると、国が乱れるというのはよく耳にする話ですよね。
歴史を遡ると、天皇や将軍家に寵愛された女性は、権力を得る機会が多く、また裏で操るようなことをやってのける人もいます。
日本は、明治初期辺りから「男尊女卑」の傾向にありますが、以前は、女性も同等の権力を持っていました。

「女性によって国が乱れる」というと、かなり非難されそうなのですが、これはそもそも男が「馬鹿」であるからだと思います。
女性に取り入られ、魅了されたことが原因で、このような惨劇が起こされるわけですから。

中国の場合だと、宦官によって国が乱れることは度々指摘されていますよね。
荒唐無稽ですが、「女性に近い存在」である宦官だからこそ、国の腐敗を招いたのかもしれません。

いずれにせよ、女性という存在は、決して甘いものではありません。
女性、宦官ともに、武力はないかもしれませんが、謀略に長けている人が多いことは言うまでもないでしょう。

最後に、オリジナル小説を書いてみました。もしよろしければ一読してみて下さい。
歴史小説『敗色』・・・藤原薬子を主役とした短編小説。
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明王朝最後の皇帝・崇禎帝

中国明王朝最後の皇帝・崇禎帝すうていていを紹介したいと思います。

天啓7年(1627年)、天啓帝てんけいていが崩御し、崇禎元年(1628年)、彼の弟にあたる崇禎帝が皇位を継ぐことになりました。
即位後、天啓帝の下で絶対権力を振るった宦官・魏忠賢ぎちゅうけんを誅殺し、名臣を登用するなど国政改革に取り組みます。

当時、北に清(後金)が侵入、南に李自成りじせいの反乱が起こり、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった独りで支えようと懸命に努力します。

崇禎帝は、とても政治に熱心であり、色事にふけるような事もなく、倹約を心がけていたそうです。
(おそらく、兄の堕落政治と宦官の専横を、陰からじっと見ていたからでしょう)
しかし猜疑心が強く、家臣を信用できないというのが最大の短所でした。

即位直後から重臣を次々と誅殺し、特にあの諸葛亮と比較されるほどの名将であった袁崇煥えんすうかんを処刑したことは致命的でした。
明が滅亡した原因として、必ず崇禎帝の「猜疑心」が挙げられるほどだそうですね。
また、魏忠賢の件もあり、宦官に対しては、かなり厳しく取り締まっていたようです。そのため、ほとんどの宦官たちは、彼に反感を覚えていました。

崇禎17年(1644年)、逆賊・李自成の軍により、北京は包囲され陥落。
崇禎帝は緊急勅命を発しますが、文武百官は逃亡しており、ほとんどの者が李自成側に寝返ります。
紫禁城の城門を開けたのは、君主を裏切った宦官たちでした。

独りとなった崇禎帝のもとに駆け付けたのは、宦官・王承恩おうしょうおんただ一人だった。
彼は、「陛下に仕える者も最後まで必要でしょう」と述べており、李自成側の誘いには一切応じませんでした。
またこの人は、宮中では全く目立たない存在だったそうです。

崇禎帝は覚悟を決めると、紫禁城の北にある景山で首を吊り自殺。
その後、王承恩もそれに従い、崇禎帝の隣りで殉死。
これにより、大明帝国は滅亡します。


崇禎帝と宦官・王承恩の二人については、もっと評価されるべきであり、かつ知られるべきだと思います。
宦官と言えば、汚職や賄賂、裏切りで有名ですが、中には王承恩のような皇帝に忠実な者だっているのです。
猜疑心により全てが裏目に出た崇禎帝に関しても、彼なりに国のことを考え、大変な努力をしていました。ましてや、彼のせいで明王朝が滅亡したわけではありません。
そもそも、明の時代は、暗君(万暦帝ばんれきていや天啓帝など)が多く、かつ国の大衰退をそのままにして崩御する者がほとんどです。
それをたった独りで、解決しようと試みた行為は、評価されて当然なのです。

人間とは不思議なもので、出会う人たちによって、人生や運命に多大な影響を与えます。
誰か自身を支えてくれる人がいれば、自身を変えさせてくれるものです。
やはり、人との出会いは大切にしなくてはなりません。

もしかすれば、たった独りで努力する崇禎帝を支える相談役として、王承恩が早くに活躍していたとすれば、運命は変わっていたのかもしれません。

漢王朝諡号解説

以前、諡号についてブログで書いたかと思います。
その続きとして、各皇帝に贈られた諡号の解説を紹介したいと思います。

いくつか不明な箇所もありますが、そこは私が勝手に判断しています。
「逸周書謚法解」より、解説されたものを紹介できれば良いのですが、残念ながら手に入れることはできませんでした。

【前漢】
恵帝けいてい
「柔質受課曰恵」
意味:性格が柔和であり、諫言を受け入れられる。

文帝ぶんてい
「道徳博厚曰文」
意味:道理や徳行について、非常に博識である。

景帝けいてい
漢字より、おそらく「徳があり天下を照らすこと」といった感じでしょうか。

武帝ぶてい
「克定禍亂曰武」
意味:克己し、禍や戦乱を収め、世を定める。

昭帝しょうてい
「昭徳有労曰昭」
意味:功績を譲る徳を持つこと。

宣帝せんてい
漢字より、「何かを知らしめた」ということでしょうか。

元帝げんてい
「主義行徳曰元」
意味:善を立て、徳のある政を行うこと。

成帝せいてい
漢字より、「何かを成し遂げた」といったところでしょうか。

哀帝あいてい
「恭仁短折曰哀」
意味:容姿が恭であり、徳があるけれども夭折すること。

平帝へいてい
「治而清省曰平」
意味:疫病や災害で民を傷つけることがないこと。


【後漢】
光武帝こうぶてい
意味:前業を受け継いだ事を「光」といい、禍乱を平定した事を「武」という。

明帝めいてい
「照臨四方曰明」
意味:徳により四方を照らすこと。

章帝しょうてい
「温克令儀」を「章」という。
寛大で忍耐強く、立派な威儀がある。

和帝わてい
漢字より、「争いを好まず柔和的である」という意味かもしれません。

安帝あんてい
「好和不争曰安」
意味:情が平和を好み、人と争わず、心身共に安であること。

順帝じゅんてい
「慈和遍服曰順」
意味:人をその慈和に服させること。

質帝しつてい
「名實不爽曰質」
意味:名と実の違わないこと。

桓帝かんてい
「辟土服遠曰桓」
意味:武力によって四夷を征すること。

霊帝れいてい
「乱而不損曰霊」
意味:世の中が乱れたが国を損なわずに済むこと。

献帝けんてい
「聡明睿智」を「献」という。

和暦

現在、日本では和暦と西暦の両方を使用するのが一般的です。
しかし、文書以外では、西暦の方をよく使用されているかと思います。

和暦が初めて使用されたのは、飛鳥時代であり、孝徳天皇によって制定された「大化」がその始まりとなります。
和暦は日本独自の紀行年でありますが、この根源は、やはり中国文化の影響があってのものとなります。

中国の元号制度は、前漢時代の武帝によって制定された「建元」から始まり、以降清時代まで使用されていました。
現在は、「中華人民共和国」となってから「民国N年」と数えられており、元号は使用されなくなっています。

したがって、古代から現在まで独自の元号制度を行っているのは、日本だけとなります。
東アジアでの「皇帝」「元号」などの制度は、中国が根源ではありますが、現在まで使用しているのは日本だけであり、これは誇りに思うべきなのです。

そもそも和暦とは、何のために使われているのか理解していない方も多いのではないでしょうか。
もとは、皇帝が「空間」と「時間」を支配するという思想に基づいており、空間は「国土」、時間は「元号」を意味しております。

現在の「平成」になる前には、「修文」「正化」「文思」「天章」「光昭」などの候補がありました。
最終案では、「平成」「修文」「正化」の三つに絞られ、ローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという理由で、「平成」に決まったとか。

「"平成"は本日より"ケロロ元年"でありま~す」
侵略者に征服された場合、こんなフレーズが発せられるかもしれません。
それほど和暦というものは、日本になくてはならない存在なのです。

稲川淳二 怪談『不思議なトンネル』

稲川淳二による、怪談「不思議なトンネル」について。

この話は、稲川淳二さんと関ジャニのメンバーたちが、心霊スポット・旧々吹上トンネルで体験したことについて語られています。
旧々吹上トンネルでの体験をきっかけに、稲川さんは独自にそのトンネルについて調べます。
その結果、この旧々吹上トンネルでは、連続幼女殺人事件で世間を騒がせた、あの「宮崎勤」が足を踏み入れていた場所であることが分かったのです。

当時、稲川さんは自身の番組内で、宮崎勤に対して糾弾しており、「決して許されることではない」と、強く非難していたそうです。
宮崎勤らしき人物からの手紙を受け取った時は、警察から家族の保護を促されますが、稲川さんはそれを受け入れず、頑な態度を取ったそうです。
(おそらく、稲川さんのところは恐妻家だったため、どうでも良かった?)

猟奇的殺人者である宮崎勤は、熱狂的なオカルトマニアだったそうで、様々な心霊スポットに出向いていたようです。
そういうところを行ったりしていたからこそ、何か得体の知れないものに取り憑かれていたのかもしれません。

稲川さんは「だからといって犯人を霊のせいにするわけではないが、何かしらの力が作用したのかもしれない」と語っており、そのことについては私も同意見です。

トンネル内はすでに悪霊の巣窟であり、精神的に不安定な宮崎勤が足を踏み入れたことで、彼は格好の餌食となってしまったのです。
取り憑かれた宮崎は、「幼い女の子を殺さなくては」という気持ちになり、犯行に及んだことも何となく分かる気がします。
また、そのトンネルには以前、謎の男によって女の子が惨殺された事件があったそうで、何だかそれとリンクしている感が否めないですよね。

宮崎は「死刑」となりましたが、取り憑いていた悪霊自身が「宮崎にはもう使い道がない」と判断し、かつ宮崎の身体から解き放たれるための手段として、「死刑」の流れになったのかもしれません。(あくまで私の想像)

もしこれが事実であるとすれば、心霊スポット巡りなどは、容易にお勧めできないことが分かります。
皆さん、決して興味本意で、心霊スポットには出向かないで下さい。
ちなみに現在、旧々吹上トンネルは、鋼鉄の壁によって塞がれており、中に入ることができなくなっています。

私がこの話で最も恐怖を感じたのは、「その犯人は、暗闇のトンネルの真ん中で、ずっとうずくもっていた」という場面です。
私だったら、怖くて怖くて、決して長く居られることなどできません。

この話もそうなのですが、私自身どうしてもトンネルという存在が、恐ろしい聖域に感じてしまうわけなのです。
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霊睡蓮

霊睡蓮(レイスイレン)
1989年生まれ/大分県/AB型
コノ恨ミ……晴ラシテミセル……
根に持つ性格で、その恨みは呪いを以て晴らす。
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