一言で民を救った宦官

昨日の続きです。
宋が南漢を制圧した時の話。

宦官・余延業よえんぎょうは、身体が小さく、発言に善悪の区別ができなかった人物。
そんな余延業は、宋軍が郴州城を攻めて来た時、たったひとり城内にて取り残されてしまいました。
そして、陥落と同時に捕虜となります。

宋の太祖・趙匡胤は、余延業に事を尋ねます。
「汝は、何の官職にあったのか」
「私めは、扈駕弓箭手の官にありました」
(扈駕弓箭手とは、皇帝の行列に参列し弓矢を持って護衛する役目)
「弓を引いてみよ」
太祖は、弓矢を余延業に渡し、試射してみるよう命じます。
ところが彼は、力一杯に弦を引き、矢を射ろうとしますが、何度も失敗してしまいます。
これを見た太祖は、笑いながら、こう言いました。
「汝の主の政治は、どうであったか」
「後主は、『焼』『煮』『剥』『剔』などの拷問を考案し、罪人に虎を捕まえさせたり、象と闘わせたりしました。入城する者からは交通税を厳しく取り立て、瓊州では米一斗に四・五銭を徴収しました。また媚川都を制定し、海にある宝珠を民に獲らせ、その宝珠で宮殿を飾り立てる一方、歳時には、豪族にその費用を供出させていました」
これを聞いた太祖は、大いに哀しみます。
「私は、汝ら民を救わなくてはならない」

南漢を併合した宋は、拷問なる刑罰を廃し、媚川都の廃止、交通税もわずかなものとしました。
人民はこれを大いに喜び、余延業はたった一言で、最大なる功績を挙げたのでした。


元より宦官は、本性を隠し、首尾よく権力者に取り入る種族。
一般的な宦官であれば、「後主のことを悪く言えば、忠誠心のない者として斬られるかもしれない」と不安がり、真逆の言葉を伝えていたかもしれません。
しかるに、偽りなく語るなど、宦官にとっては致命的な事柄なのです。

余延業は、発言の先を考えず、思ったままに話しました。
しかし結果的に、この拙い性格のおかげで、多くの民を救うことになったわけです。
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宦官マニアな皇帝

中国五代十国時代・南漢国。
第4代皇帝・劉鋹りゅうちょうは、非常に猜疑心が強く、官僚や文官たちを処刑しては、代わりに宦官を取り立てていました。
劉鋹の時代は、朝廷がほぼ宦官で占められる有様でした。

優れた人物や学者など、国家に必要な人材を取る時は、必ず去勢させてから用いたほど。
進士試験を首席で合格した者は、自宮させられたという話も伝えられています。

劉鋹は、世襲や一族繁栄を考える臣下を、忠誠心のない者として嫌っていました。
一方宦官は、子孫を残せないため、地位や権力を得ても一代限り。
ゆえに劉鋹は、宦官に絶対の信頼を置いていました。

挙句には政治も全て宦官に任せ、朝廷に一切顔を出さなくなります。
後宮に引きこもった彼は、宮婢やペルシャ女性を侍らせては、酒と色事に溺れていました。

当然ながら人心は離れ、宋の侵攻に抵抗できず、陥落。
宋軍が攻めて来た時、劉鋹は莫大なる財宝と宮女を連れ、船で逃亡しようと計ります。
しかし、逃亡用の船が盗まれてしまいます。
その犯人は、今まで信任してきた宦官だったのです。

宦官の裏切りにより、劉鋹は捕虜となり、南漢の領土は宋によって併合されました。
のちに劉氏一族は王侯として迎えられ、劉鋹は「恩赦侯」になり、その死後は「南越王」と追封されました。

こんなエピソードがあります。
ある日のこと。劉鋹は、宋の太祖・趙匡胤から酒が賜われました。
かつて毒酒で臣下を殺したことのある劉鋹は、その酒を恐れます。
その様子を見た太祖は笑い、自らその杯を飲み干しました。
劉鋹は、大いに恥じ入りました。

劉鋹は、救い難いほど暗愚な君主であることが、お分かりになるかと思います。
この人、諡号や廟号はなく「後主」と呼ばれています。
宦官を重用したり、王侯として優遇されたりと、妙に三国時代・蜀の後主(劉禅)を彷彿させる人物ですね。

仏教マニア・聖武天皇

日本奈良時代、第45代天皇・聖武天皇。
仏教の力を以って、国を護り平和な時代を築こうとした帝です。

時の皇后・光明皇后は、藤原不比等の娘(「皇后は皇族から」の風習を破る)であり、当時長屋王に反対されていました。
しかし、最終的に長屋王は自殺し、反対勢力がなくなります。そう、藤原四兄弟(不比等の息子たち)の策略だったのです。

そんなある時、疫病が大流行し、藤原四兄弟を始めとする高位高官らが、相次いで亡くなる事態が発生します。
これを契機に、藤原氏、橘氏、大伴氏ら貴族による権力争いがひどくなります。
さらにその三年後、九州の太宰府にて藤原広嗣が反乱を起こしています。

それに加え、災害や飢饉が多発し、心を痛めた聖武天皇は仏教を頼るようになります。
また平城京から遷都を行うことで、惨禍からの解放を試みようとしました。(官民による反発が強く、最終的に平城京帰京)
各国に「国分寺」、「国分尼寺」を、そして「東大寺大仏」を建立する勅命を発信。

「墾田永年私財法」(新しく切り開いた土地は、自分のものにできる法律)を制定。
結果、貴族の荘園ばかりが、増えることになりました。
皮肉なもので、「全ての土地と人民は天皇の統治下」が崩壊することで、結果的に「天皇の力が弱まり、貴族の力が強くなる」を招くことになったのです。

聖武天皇は、突然出家を行い、娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位。
天平勝宝4年(752年)、奈良の大仏完成。
その四年後、聖武天皇崩御。

聖武天皇は、仏教の力を借り、国と民に平和と安寧とを祈り続けた人物です。
奈良の大仏造りは、災害、飢饉、疫病の流行、権力闘争、反乱、律令制の崩壊による悪夢からの脱却を図ったものであることが分かります。

しかし、大規模な都造り、国分寺・国分尼寺、大仏の建立は立て続けに行われており、その間多大なる犠牲を払っていることは言うまでもありません。
そう、それら建設事業に駆り出されるのは、天皇の臣民である一般庶民たちです。
重税を納めながらの労役は、人民に大きな苦痛と重圧とを与えることになりました。

神仏の加護を願う大仏造りが、返って国の疲弊を招き、結果万民を苦しめることになったのです。
さらに聖武天皇の治世は、律令制が乱れ、天皇の権威を弱める要因にもなりました。

宝石サンゴ

サンゴは、岩や植物ではなく、れっきとした動物であることはご存知でしょうか。
サンゴ虫(本体)が、ポリプ(基本単位)を作り出し、それを集合させることで「サンゴ群体」ができます。
つまり皆がイメージするサンゴ図は、サンゴ群体(サンゴ虫の住宅)そのものとなります。

サンゴには、サンゴ礁(いわゆる一般的なサンゴ)と宝石サンゴの二種類があります。
サンゴ礁は、浅海に生息する「六放サンゴ」と言い、成長も早い。
一方、宝石サンゴは、「八放サンゴ」と呼ばれます。
深海に生息している上に、その成長は遅く、大変貴重なサンゴとなります。
わずか1cmでも、約50年は掛かるそうです。

六放や八放というのは、サンゴ虫の口周りの触手数です。
それぞれ六本と八本で区別し、サンゴ礁と宝石サンゴを見分けます。

宝石サンゴの歴史は深く、古代ギリシャ、ローマ時代には、様々な宝飾品として登場していました。
ギリシャ神話では、英雄ペルセウスがメデューサの首を掻き切った時、その溢れた血が地中海に落ちたことで、赤いサンゴが生まれたとされています。
以来、サンゴは悪を滅ぼす象徴とされ、結果的に「魔除け」「護符」として扱われるようになりました。

日本に伝来したのは、奈良時代。
仏教と共に入り、時の帝・聖武天皇に献上されています。
以来、「仏教の七宝」として扱われています。
チベットでも、魔除けとして、仏具や装身具として利用されています。

現在は、赤サンゴが貴重とされ、特に日本の高知産が高品質ということで、大事にされています。
かつては地中海産が主流でしたが、いつの間にか、宝石サンゴ=日本として扱われています。

サンゴと言えば、アニメや漫画でも、よく財宝の中に紛れていますよね。
つまり、あれが宝石サンゴなんです。
パワーストーンとしても有名で、「コーラル」などと呼ばれています。
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霊睡蓮

霊睡蓮(レイスイレン)
1989年生まれ/大分県/AB型
コノ恨ミ……晴ラシテミセル……
根に持つ性格で、その恨みは呪いを以て晴らす。
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